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なんとなくな日常と気のむくままの創作雑記

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あなたは神を信じますか

 あなたは神を信じますか? リンデン・ストリートのアパートメントに住んでいたとき、隣室のクレアにそう訊かれた。肌も髪も真っ白なおばあちゃんで、訪ねてくる人もなく、いつもひとりで淋しそうだったけれど、私には優しかった。

 電話を借りにいったある夜、「あなた、日増しに痩せていくけど大丈夫? ちゃんと食べてるの?」と、おもむろにインスタントラーメンを取りだし、粉々に砕いてカップに入れたかと思うと、熱湯を注いで私に差しだしてきた。なんか食べ方違くありません?と苦笑しつつ、実は本当に飢えていたので、生茹でのインスタントラーメンでも充分おいしかった。

 「Do you believe in God?」と訊かれたのは、そのときだった。なんで急にそんな話になったのかは覚えていない。どこか貧しい国の子にでも見えたのだろうか。あるいは、あまりに悲壮な顔をしていたのだろうか。事実、足がなくて買い物にいけず、食べ物がなくなってゆく恐怖と闘っていたのだけれど、異国で宗教と政治の話はすべきじゃないという鉄則を思いながら、その質問にはこう答えた。「No, I don't. What I believe is myself」

 信じているのは自分だけ、なんてカッコいいわね。シビレちゃう。でも別にカッコつけたわけではなくて、当時の私は本当にそういう人間だった。本当に自分を信じていたし、頼れるのは自分だけだと思っていた。最近、そのときのことをよく思いだす。そういう人間のままきちゃったからこうなったのか、それとも、そもそもが幻想だったのか。自分を信じられなくなってから、もうずいぶんたつ。

 クレアはアパートメントが閉鎖されときにホームに移り、そのままそこで亡くなったと聞いた。ホームに会いにきた家族はいたのかな、なんてことをたまに考える。それとも私は、あのとき、「Do you?」と訊きかえすべきだったのかも知れない。なんのために?と問われても、わからないけれど。

 私は宗教を否定しない。理解はできないし、しようとも思わない。あまりに妄信的な人々に対しては、少なからず恐怖を覚えるけれど、信仰がなんらかの形でその人の心の支えになっているのであれば、それはそれでいいと思っている。もちろん、害がなければ。そのために大金をはたいたり、生活に不当な制約を強いたり、心身ともに負へ傾いていくのなら話は別だ。

 兄の一件以来、母がどんどん宗教にのめり込んでいて、最近はその妄信っぷりがちょっと怖い。父が亡くなったあとも、確か一段階か二段階は加速したように感じた。葬儀の際に宗派の問題も出てきたし、近所付き合い的な要素もあったし、支えてくれる仲間のような存在も必要だったろう。母が何を信じようが、私には関係ない、勝手にやるぶんには好きにすればいいと思った。幸い、変な新興宗教とかではないようだったから(たぶん)。

 でもやっぱり、のめり込めばのめり込むほど、宗教は人を変えるのかも知れない。その手の活動にひとりで参加しているぶんにはよかった。が、協力や参加を請われれば、私も無関心ではいられず、むしろ非協力的になる。場合によっては批判的にもなる。すると、「どうしてお母さんのやることに反対ばかりするの!」と逆ギレされる。自分を全否定された気分になるらしい。そして、誰もわかってくれないと相手を責める。普段はへそを曲げても数時間もすれば何食わぬ顔をしているくせに、この話で口論になると、何日も怒りつづけ、言うことなすこと、とげとげしいったらない。

 母は近ごろキレやすく、頑固で、強情で、扱いにくい。物忘れもひどくなっていて、ボケがはじまっているのではないかと気がかりだ。疲れる。わかってほしいのはこっちのほうだ。母は兄のことだけ考えてりゃいいけど、こっちは兄のことに母のことに自分のことに、家のことや仕事のこと、今後の生活のことまで抱えてるんだ。そのうえ宗教に起因する家庭不和なんて、勘弁してほしい、もうキャパいっぱいいっぱいだ。

 本音をいえば、宗教なんてなんの役にも立たないと思っている。祈ってどうにかなる問題じゃないし、どうにかなるなら、そもそもこんなことにはなっていなかっただろう。母の信者友だちだって、別に何をしてくれたわけでもない。兄が死にかけていたときに、「大変ね、頑張ってね」と声をかけるだけなら誰にだってできる。「私たちも祈るから」って、祈った結果がこれでしょ。祈らなければ、もっとひどいことになっていたとか言うんだろうけど、そのお幸せな思考回路が理解不能。

 容認の姿勢を見せていただけでも、私には精一杯の譲歩だった。本当は、物心ついたときから、母の信仰心と信仰仲間が大嫌いだった。高校受験のとき、訪ねてきた信者のひとりに、「祈れば受かるから」と言われ、ばかじゃねえのか、こいつは、と思った。合格後に、「祈りが通じたんだ」と言われ、救いようのないばかだ、と思った。不合格だったら、「祈りが足りなかった」とでも言うつもりか。受験前の私の家出騒動を、母が彼らに相談していたと知って、ひどくいやな気分になった。

 なにやらまた愚痴っぽくなってきましたよ(苦笑)。

 なんにせよ、母と娘というのは、意外と難しいもんです。女同士だからかな。上り調子の女と下り調子の女。どこかの地点で線はクロスし、娘は母を超えた気になり、面倒を見る側と見られる側の立場が入れ替わる。そのときはまだバランスがとれているからいいのだろうけど、病気やら加齢やらで、どちらも下降線になったとき、どれだけ相手を気遣えるかは、その人の性格にもよるだろうし、これまでの関係や愛情の程度にもよるのかな。

 考えてみれば、母はむかしから単純な人で、喜怒哀楽がすべてというか、とにかく人の気持ちを読みとれない人だった。「どうしてわかってくれないの?」は、思春期の私が何度となく思ったことだ。母を母親としてではなく、はじめて同じ女性、同じ人間として意識したとき、私のなかに最初に生まれた感情は失望だった気がする。でもたぶん、母と娘なんて、どこもそんなものなんじゃないかな。宗教云々はまたちょっと別の話だけれど、もしかしたら、根底には私自身の「母否定」があるのかも知れない。

 クレアとの会話を思いだすと、若さはばかさってよく言うけど、本当だよなーと思う。根拠のない自信というか、どんな神経であんな台詞が言えるのかと(苦笑)。でも、自分を信じていられるのは幸せなことだし、何よりも心強いよね。拠りどころがあるという意味で。信仰もきっと、そういうものなのだろうなと漠然と。例えば、子供のころから教会に通い、当たり前のように神を信じていたら、少しは違った人生だったのだろうか、なんてことを、ほんのちょっとだけ考えた。

 余談だけど、「Do you believe in God?」という質問を他人に、まして異国の人間に投げかけるのは、けっこう勇気のいることなんじゃないか、という気がした。クレアはどうしてそんな質問をしたのだろう。やっぱりもっと話してみるべきだったかな。わずか十数分ほどの会話だったのに、何年もたってから、こんなふうにふっと心にひっかかるなんて、わからないもんですねえ。
 
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